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【学校教育法第11条】とにかく、体罰は許されない。

 
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上の名前がコージ、下の名前がコーダイです。 兵庫県生まれ、福岡市在住。 最近、長男が生まれてパパになりました。 暇を見つけては講演、研修の講師をしています。 人の意識を変え、国際協力の必要のない持続可能な社会にすることが目標です。
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学校関係のニュースがあるたびに、「体罰は必要か」「必要じゃないのか」なんてことについて議論がされますが、すでに議論の方向性がおかしいのでここに指摘したい。

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とにかく、体罰は許されない。

この問題に関してはもうこれに尽きます。正直、私も不勉強で若かった頃には同じような議論をいろんな場所で教育関係者や、全く関係のない知人などとしていました。そして、その時は「必要だ」という立場で偉そうに持論を振りかざしていたのを覚えています。

しかしですね、ただの勉強不足だったことをその後に知りました。

感情論じゃないんですよ。いいですか、法律の問題です。

学校教育法の第11条ではっきりと否定されているんです。

校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。ーー学校教育法第11条

酒を飲んだら車に乗ったらダメだよ、人の物を盗ったらダメだよ。

みたいなのと同じです。

いや、自分が子どもの時は殴られとったぞ!っていう意見もあるでしょう。実際、私も体罰はされまくっていましたから。でも、この法律は昭和二十二年に施行されているんです。これまで、じゃあなんで長年黙認されていたのかというと、「子どもの権利」に対してほとんど意識がされていなかったからです。殴られた子どもは訴える手段がなく、歯を食いしばって耐えるしかなかったのです。

子どもの権利

体罰に関してのイメージが変わってきたのは「子どもの権利」について市民意識が高まったからです。

そもそも、「子どもの権利」という考え方が日本だけじゃなくて、世界的に一般的ではなかったんですよね。だから、体罰を正当化する屁理屈がまかり通っていたというのが、伝統的に体罰が容認されていた理由です。

ちょっと深呼吸して冷静になって考えてみてくださいね。

大人に対して殴るのは許されませんよね?基本的にどんな理由があっても。ボクサー同士の試合なら話は違いますが、ダメなんです。

なんで、それが子どもにだけ適応外なの?っていう話です。子どもだって、殴られたりする理由ないよね。当たり前のことを当たり前にしていこう。ってことです。

そして、何よりも法律で定められているんですよ。もし、それを無視して私たちが行動したら法律ってなんなんですか。自分たちが完璧じゃないから、自分たちを縛るための規定=法に私たちは守られて生活をしています。法改正について議論をしたほうがいい。でも、法改正について真面目に議論をしたら「子どもを殴ること」を法の中で正当化するまでの理由なんて見当たらないから、やっぱり体罰を容認する理由はなさそうです。だって、怖いでしょ。法律の中に、「ただし、いうことを聞かない生徒に関してはこの限りではなく、懲罰(体罰を伴う)の対象となる」みたいな文言が盛り込まれている社会を想像してみてください。寒気がします。

もちろん、子どもによる暴力も許されない

じゃあ、子どもが先生を殴っても先生は殴り返したらダメなのかよ!そんなのおかしいやろ!

そんな声も聞こえてきそうですし、実際博多高校での教師に対する暴力事件の際に上記のような意見が多くでていました。

いやね、だからそもそも子どもも先生を殴ったらダメなんですよ。

誰も誰かを殴ってはいけないんです。

ちなみに、先生の正当防衛は認められています。後、暴れる生徒を押さえつけるのとかもね。

しかし、問題はそんなところじゃなくて、「体罰ができなくなったから先生が弱くなった」みたいな言説こそが問題やと思うのです。

先生はえらい

はるか昔に読んだので原文については忘れましたが、内田樹氏の「先生はえらい(ちくまプリマー新書)」という本の中に非常に面白い記述がありました。

なんとなく、先生っていうのは自分より優れていて、あの人のいうことを聞いていたらええみたいやぞ、みたいな勘違いから、先生が成り立つ。

みたいな内容やったと思います。内田樹氏は難しいテーマを非常にストンとわかりやすく話ができる天才です。中高生用の新書なので非常に読みやすいのでぜひ手にとってみてください。

脱線しましたが、要するに勘違いから先生と生徒の関係が成り立つと言っているわけです。ちょっと変な行動をする先生すらも、生徒がこの人は自分の先生だから何か意味があるに違いないぞと錯覚することで、結果的に生徒が自ら成長していく。先生とは問題提起をする人であって、教える人ではない、そして生徒はどんなことからも学ぶ人なんだ。つまり、先生と生徒という関係はそういうところにある。と述べているわけです。(記憶だけを頼りに再現しているので原文と全然違う主張だった場合は内田先生すいません)

果たしてこれが今の学校現場で通用するかというと通用しないのです。とにかく先生の地位が低いからですね。教育問題はネタとして拾い上げられやすく、事あるごとに地位が低下していくのです。

だから、この勘違いが成立しない。

これは、教員としては非常に苦しいです。特に若手はね。

社会全体で学校を支えられないか

ところで、今年(平成30年度)の福岡県の教員の求人数知ってますか?

<福岡県の採用予定数>

そして、福岡には最近神戸を抜いた政令市福岡市があります。

<福岡市の採用予定数>

さらに、若干規模は小さくなりますが、北九州も政令市ですので別枠で採用があります。

<北九州市の採用予定数>

ざっと、1700−1800人ぐらいでしょうか?

倍率については想像に難くないかと思います。

こんだけの新人が学校に入ってきます。もちろん、初任者研修制度など設けられていますが、それだけで対応できるとは思えません。新人がくるとベテランがその指導につきます。ギリギリで回っている学校がますます回らなくなります。

だからですね、みんなで先生をサポートしていくしかないと思いませんか。特に若手の先生に関しては地域や社会全体で育てていこうという意識がないと崩れてしまうのではないかと危惧しているのです。育てていくというのはあれこれ口を出すことじゃないですよ。時にはそれも必要かもしれませんが、その先生がどんな教育観を持って教育に当たるかについてはある程度その先生に委ねられるべきです。だからこそ、教育の多様性が担保されるのです。

先生も慣れてない部分あるかもしれないから手伝える部分はないだろうかという視点を持つことが大事なんちゃうかなと思うわけです。また、そういう考え方を共有していくことが今、必要なんじゃないかと思うんです。多くの学校現場は精神論でなんとかなるような状況を超えています。

 

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