プロフィール

プロフィールページをご覧いただき、ありがとうございます。

ぎゅっと凝縮して、どちらかというとオフィシャルなプロフィールを【略歴】にまとめています。講演や研修などの講師紹介などで使用しているものです。

私の人となりについては、【略歴】よりもその先を読んでいただければと思います。

略歴

糀広大

・国際理解教育NGO「学校から世界のミカタを考える会」 代表

・「地球市民どんたく」 実行委員会 実行委員長

・社会人ドクター[広島大学大学院博士課程後期国際協力研究科教育文化専攻]

兵庫県明石市出身、福岡県福岡市在住。大学卒業後、私立高校に勤務。その後福岡教育大学大学院(教育科学専攻)に進学し、同大学院修了後、日本以外の教育現場を見ることで、教育について相対的に見つめ直したいという思いでJICAのボランティア事業(青年海外協力隊)に参加。ミクロネシア連邦のチューク州、聖セシリア小学校にて主に算数科のカリキュラム作成、現地教職員への指導方法の改善のための取り組みを行った。帰国後はJICA九州の国際協力推進員として福岡の国際理解進展のため小学校から大学、各種団体を対象に異文化理解や、国際協力をテーマにした講演やワークショップを年間50件以上実施。JICA九州在職中に国際理解教育推進のためのNGO「学校から世界のミカタを考える会」を立ち上げ、<子どもと世界の距離を縮める>をスローガンに教職員だけでなく、自治体や地域の関心者と共に、教材の開発や開発教育の普及のための活動をしている。現在は広島大学大学院国際協力研究科(教育文化専攻)の社会人ドクターとして、町役場でのグローバル人材育成を軸にした地方創生の取り組みについて研究をしながら、福岡を代表する国際協力の祭典「地球市民どんたく」の実行委員長を務める。グローバル教育コンクール2016、グローバル教育取り組み部門で佳作入賞。趣味はウクレレ。好物はココナッツ。

 

行動目標

日本をもっと世界に近づける(もっといい加減に)

世界をもっと日本に近づける(もっときっちり)

※後日、詳細をブログ記事としてアップします。

意識変容による国際協力/持続可能な社会の実現

 

受賞歴

グローバル教育コンクール2016 グローバル教育取り組み部門 佳作

朝の「10分間」開発教育のススメ —教室にいながら365日世界一周の旅—

 

講演歴

学校や自治体、企業などの外部講師として2013年以降、200件以上の講演やワークショップ、研修を請け負っている。(2017年時点)

講演業に目覚めたきっかけは、2013年9月25日に神戸で開催された『ミクロネシア連邦・日本 外交関係樹立25周年記念式典』で講演依頼を受けたこと。「ミクロネシアから持ち帰ったもの」をテーマにJICAボランティアとして派遣された同国で感じたことを話した。John Fritz駐日ミクロネシア連邦大使、盛山法務大臣政務官(当時)、兵庫県副知事、神戸市副市長、外務省(関西担当)特命全権大使、在伊丹ミクロネシア連邦名誉総領事などを含む100名近い出席者の前での講演で、今考えるとなかなかすごい参加者の前で話をする機会をいただいた。

【講演】ミクロネシアから持ち帰ったもの【外交関係樹立25周年記念式典】

2017.09.23

「経験を一般化して伝えること」の面白さに目覚めJICA九州の国際協力推進員として勤めた3年間で講演やワークショップを150件ほど実施。

その後も本業の合間に月2−3回程度のペースで実施している。

主な依頼元は、教育機関(小・中・高・大・専門学校)、教育関係(教員研修組織、PTA)、自治体(グローバル人材育成部署や、教育委員会など)、商工会、JICA、各種団体(NGO・NPOなど)

過去のテーマ例

・体験して学ぼう「ファシリテーション入門」

・世界のミカタを考えよう(ビジョン拡大のためのためのフォトランゲージ)

・開発教育指導者研修

・トモダチの作り方(コミュニケーションの取り方)

・おもてなしの初耳学(観光ガイド育成研修)

・ミクロネシアから見る「戦争と平和」

※初期の頃は、海外でのボランティア経験を中心にした「異文化理解」「国際理解」などの講演会が多かったですが、最近は幅広いテーマで「コミュニケーション」「ファシリテーション」などを軸にした参加型の講演会や研修、ワークショップを担当させていただくことが多いです。依頼内容が具体的に定まっていない場合は、課題の抽出からテーマの設定までを含めてオーダーメイドで講演をしています。

 

これまでの歩み(随時更新予定)

幼少期編

父に髪を刈り取られる筆者

1983年10月11日、兵庫県に生まれる。

小さい時は勝手に人の家の裏口から侵入し、台所を物色しお菓子を食べていたらしい。

幼稚園で先生がたらいにザリガニを入れて持ってきて「ザリガニを描きましょう」と指示した時に、他の子どもたちは楽しそうにスケッチブックを開いて絵を描いていたのにも関わらず、「ザリガニは動いている。動いているものを絵にすることはできない。ほら!今ハサミが動いた!同じザリガニはいない!」と一人だけ哲学的なことを言って先生を困らせていた。母に聞くと、同じ時期に課題として出されたヒヤシンスの絵は(動かないから?)とても詳細に描いていたそうである。

自由気ままに生きていたため、先生から「幼稚園の間はいいんですけれど、小学校に上がるとどうなることか・・・」と心配されて小学校に進学すると、心配された通りとにかく先生泣かせの子どもだった。

小学校高学年で落ち着き、5年生の終わりに近所の友達からの「図書券がもらえるよ」という安いエサに釣られて塾に入る。塾というものが何かもいまいちわからないまま、一年ちょっと通い、なぜか田舎の進学校に合格。入学時の成績は13番でこの時が人生のハイライト。

思春期編

中学に入学して、「東京大学に行きなさい!」という一貫した学校方針に、途端に勉強への興味を失う。成績もどん底に落ち込み、常に下から3番目をキープするようになる。

その頃、オトンから言われた謎のパワーワードがこちら

今のお前は深海魚や!(浮き上がることができない。浮き上がったら死ぬ)

潜水艦になれ!(自由に浮き沈みができる)

父の叱咤激励もあまり意味がなく、中高一貫の六年間通ったが結局一冊のノートもとることなく、持ち前の明るさとコミュニケーション能力だけで先生方にかわいがられて評点は全く足りていなかったのに修正液だらけの成績表を片手に卒業する。割と普通に落第を出す学校だったため、三学期終了時の進級審査の度に自宅の電話の前で受話器を握りしめていたので、今でも実家の固定電話の音が怖い。

中学受験の知識をフルで活用しセンター試験を受け、二次試験が口先(小論文)だけで受けられる大学を選び、福岡教育大学へ。

青年期編

二十歳を目前でオトンが急逝する。価値観が大きく変わる。言葉にするとしょうもないが、「ああ、みんな死ぬんだなぁ」「タイミングは選べないんだなぁ」というのをグッと深い部分で突きつけられる。突然オカンがアクティブになり、家族旅行が増える。最初は国内の移動が多かったが、徐々に国外にも足を伸ばすようになる。

「後悔せんように、やりたいことはとりあえず全部やっとく」という基本姿勢がこの頃に根付く。

勉強が好きすぎて、5年目の春を迎え、家賃8900円の部屋の隙間から星が見える下宿に引っ越して荷物を詰め込み、前期を休学して幼馴染のすむ横浜に居候をする。

「フィールドは選ばずに、来た話のところ(学校)で働こう」と思っていたら、卒業間際に話が舞い込んで私立の高等学校へ。

勤務先は、いわゆる教育困難校だった。

教室での少し変わった取り組みや歯に衣着せぬ物言いが、理事長から評価されたのか、学園本部(複数の学校を運営している学校法人だった)の会議にも出席し、学園の広報や方針についても意見を出させてもらうという異例の待遇を一年目から受けた。

生徒だけでなく先生も含めた学校全体にはびこる「どうせ何やっても一緒」「ここに来た時点でおしまい」といったムードを払拭するためには、「ポジティブな前例を作る必要がある」と考えて、二年目には進路指導室の一角に学習スペースを設置し、比較的体力と規律のある部活生から希望者を募り、部活後の学習指導を実施した。最初は細々と非公式に行っていた活動であったが、徐々に協力してくれる先生や参加する生徒も増え、また最初は冷ややかな反応をしていた先生や生徒たちも活動を覗きに来たり、何をしているのかを聞いてきたりと興味を示すようになり、目に見えて学校の意識が変わっていくのが感じられた。結果は「国立大学に合格」という学園始まって以来の歴史的快挙に結びついた。一般的に進学校ではない私立学校は授業料免除などで特進クラスという少人数クラスを作り、そこで進学実績を作る。しかし、この時に合格したのは普通のクラスからで、本当の意味で自分たちの中から進学実績を残す者が出てきたことに学校中が沸いた。ちょうど、球技大会の最中に合格発表があり、合格した生徒を他の仲間たちが誰が言うでもなく自然に胴上げを始めた様子はまるで学園ドラマのようだった。

不学則殆(思いて学ばざれば則ち殆し)

二年で退職し、大学院へ進学した。理由は引用にもあるが、思いが募ってきたからである。学校現場の抱える課題は複雑化しており、しっかりと学ばなければ危ういという直感である。

子どもたちの学習意欲の低さをどうにか解決したいという思いが、研究の動機ではあったが、多くの院生が辿るように、出口のない迷路に迷い込み、あまり思うような研究ができなかった。(挫折)

大学院時代の最大の実績は、退職時に全校生の前で宣言していた「卒業式の時には誰か分からんようになって帰ってくるから」を有言実行をし、6ヶ月で60キロの減量を成功させたこと。

【巨デブ専用ダイエット】6ヶ月で60キロ痩せたから方法を教えるよ(前編)

2017.09.19

この時の減量があったから後の海外ボランティアに参加することができた。

大学院を修了後、教職に戻るか迷ったが「学校ってなんだろう」「教育ってなんだろう」「先生ってなんだろう」といった根本的な問いに対してスッキリとした回答ができない自分に気づき、自分の考えを相対化するために国外で先生をしてみることにした。

青年海外協力隊編

留学しても現場を知ることはできないし、どうにか海外で教育に関わることはできないかと思っていた時に出会ったのがJICAのボランティア事業である青年海外協力隊。

2011年6月から2013年6月までミクロネシア連邦チューク州(トラック諸島)の聖セシリア小学校へカリキュラムの作成と同僚の算数教育の改善のために派遣。

協力隊時代のエピソードについては当時書いていたブログがそのまま残っているので関心がある人はそちらを見ていただきたい。→そちらはコチラ

大きな変化は協力隊に行って40キロ太ったということ。

帰国後(社会還元)編

ボランティアから帰国すると全員が受けさせられるのがかなり精密な健康診断。とある難病の疑いがかかり、「多分ちょっとしたエラーだから」と最初はいっていた先生が検査を進めるに従い、だんだん口数が少なくなり、「次は家族の方ときてくださいね」と言われた時には望まずしてこれまでの人生を振り返るきっかけになった。最終的には骨髄検査(激痛)まで実施したが遺伝子レベルで異常が認められず、結局「大丈夫だった」というしっくりしない結末になった。

半年ほど、関西(実家)で自分の気持ちや活動で得たものを整理するために時間を費やした後、福岡に戻った。

JICA九州の国際協力推進員として3年間、福岡都市圏を中心とした広域の国際理解推進のためのイベントの企画や、セミナー、講演会などを実施した。個人事業主としての雇用で、上司も部下もいないという仕事を経験し、予算立てから企画、広報、当日の業務、事業報告に至るまで自分一人で回す難しさと面白さを覚える。

この頃に妻と結婚する。結婚式のために30キロ痩せる。

社会人ドクター編

JICAの国際協力推進員として働きながら次のキャリアについて考えていた時に、退職後も変わらずに社会活動を続ける方法について考え、国内の意識改革による国際協力を実現するためのNGOを立ち上げた。

地域社会におけるグローバル人材育成事業がどのように住民の意識変容に影響を与えるのかを研究をするため、某自治体に企画を持ち込み働きながら、現在研究を進めている。(現在進行形)

大学院の合格発表の前日に長男が生まれる。息子がとにかくかわいい。

→続く

 

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