【博多高校教師暴行事件】謝罪文がどうして再炎上したのかについての考察。

 
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上の名前がコージ、下の名前がコーダイです。 兵庫県生まれ、福岡市在住。2児の父。 人の意識を変え、国際協力の必要のない持続可能な社会にすることが目標です。
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やっと、下火になってきたなと思ったら謝罪文登場で予想通りの再炎上である。

同校で働いていた身として、せめてもの情けでしっかりと考察させていただきたい。

事件そのものへの考察はコチラを読んでください。
>>>元博多高校教師が考察する、先生に対する暴力行為の背景について

 

目次

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謝罪文の何がいけなかったか

 

今回起きた事件について何がダメだったか。
それは、誰に向かって話しているのかがはっきりしなかったこと。

あと、コピペ疑惑なんかも上がってますね。
さすがに酷似しているので、おそらく書くにあたって土台にしたのでしょう。

とにかく、要するに

  • スッキリさせられなかった
  • なんとなくシコリが残る
  • 不快感がある

っていうことが問題なのです。

深く考えてニュースを見ている人はそんなにいません。

特にネットの情報などはなおさらです。
通学時間に、通勤時間にさらっと情報を頭に入れていて、滅多なことで「うーん」って考えないでしょ。

だから、
「何これおかしくない?」
っていう比較的ライトな気持ちで例えばツイートをする。

そして、その違和感が共感の連鎖になりバズるのです。

 

だから、価値のない意見かというと全くそういうことではなく、だからこそフツーの感性に触れる機会ということで非常に価値があると私は考えています。
肌感覚でおかしいと感じるものってだいたい正しいですしね。

今回の炎上に関しては起こるべくしておこったのです。

 

そもそも、謝罪文ってなんだろう?

 

私はこう整理しています。

何がおこったかを当事者がしっかりと整理し、反省し、具体的な対策を発信するための文章。

そして、今回の文章に関してみれば、

  • 整理がズレてて(SNSの利用方法)
  • 反省の方法も間違えて(コピペ)
  • 対策も間違えた(ITモラル教育)

ということで、大炎上しています。

 

組織としての反省ができていない。

 

直接、学校とのやり取りをしたわけではありませんが、謝罪文から組織として反省(話し合い)ができていないのではないかということがうかがい知れるわけです。前回も指摘しましたがコミュニケーションの問題です。今回は学校組織内のね。

なぜそう言えるかというと、謝罪文の中の言葉が大きな言葉だらけだからです。

 

大きな言葉というのは、例えば「日本人は真面目だよね」みたいな発言の時の「日本人」にあたる言葉です。
日本人って一括りに出来ないですよね。
真面目な人もいれば不真面目な人もいる。

でも、「日本人は真面目だよね」って言われるとなんとなく分かったように話が進みます。

そうなんです。
大きな言葉を使って話をすると、なんとなくすぐに解決した(わかった)ような気がするんです。
しかし、本質的なことについては何も議論できません。

正直、謝罪文の内容として「SNSの活用方法が問題である」っていうのが入っていてもよかったと思うんですよ。ちゃんとそれについて考察されていればですけど。

 

SNSに利用つきましても、その危険性を指導してまいりました。

 

まさに、大きな言葉で話している典型的なものでしょう。
「SNS」とは何か、「その危険性」とは何か。
何よりも今回の事件とSNSとの関連性についてが全く見えてこない。

 

だから、そこに読み手の「学校の中のことは外に出すなってことかよ!」みたいな憶測を呼びます。
なんで、こんな大きな言葉だらけかというとおそらく限られた人間だけで話し合いをしているからです。

これは博多高校だけでなく多くの学校や、会社、組織で共通している課題だと思います。

ハイコンテクストな人たちが、内輪で通じる言葉だけで議論をすると、大きな言葉だらけになります。
なんとなく何を言いたいかが少なくともその場にいる人同士ではお互いに分かるからです。

また、参加者が限定的になると意見に多様性がなくなるので、今回の謝罪文のような読者が非常に多い場合、不快感を感じる人が必然的に増えてきます。
だって、読み手はローコンテクストな中で、ハイコンテクストな文章を読まないといけないですからね。

違和感だらけなのは当たり前です。

 

今回の文章を書くにあたって、多分、一般の教員はほとんど関われてないんじゃないかなと思います。(要確認)

だって、多分20、30代の教員が入っていて、意見を言える状況にあれば「おかしいぞ」っていう判断もできたと思うんですよね。

実際、事件直後の記者会見の時に、ITモラルについて学校側が発言していて、それについての批判的な意見が一定数ありましたしね。
今回の文章はそういう情報も入ってこないような層が、予定調和の中で作成した反省文なんでしょう。

背伸びをしてSNSやITモラルを語る(情報を活用しきれていない)層が書いた文章が、情報社会に切られるというのはなんとも皮肉な構造ですね。

 

校内ポリティクスが強すぎる

 

この前の暴力行為の背景について書いた記事では、困難校になればなるほど学校が生徒と話をしないという話をしましたが、これは学校と教師の間についても言えると私は思っています。

校内ポリティクス(学校の管理体制)が強すぎるのです。
とにかく、話し合いでことが決まることが少なすぎるのです。

今回の件に関しても、職員会議は開かれたとは思いますが、おそらく上から話がおりてくるだけやったんやろうなというのが容易に予想できます。

議論らしい議論はなかったのでしょう。
あればきっと今回のような事態になってないはずです。

だから、意見に多様性が生まれてこないし、外部に発信した時に伝わらない。

今回の博多高校の件は、同校のみならず、多くの学校や組織、あるいはそれを支える市民に至るまでが様々な課題について考える非常にいいきっかけになったと思います。

 

※今後の取り組みにつきましては、順次掲載してまいります。

 

幸い、今後の取り組みについて発信をしていかれるということですので、是非とも形式的にではなく、根本的な問題も含めて足元から見直していただいて、より良い学校づくりをしてもらいたいと思っています。

地域社会でしっかりと見守っていきましょう。

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